また数日経った、ある日のこと。
「おおい、鳥羽」
一日の仕事を終えた鳥羽が帰ろうとした時、そう声を掛ける者が居た。
振り返った鳥羽の目に映ったのは、鳥羽に例の怪談話をした先輩だ。
「何ですか?」
「お前、三年前の柳通りについて調べてるんだって?」
先輩の言葉に、鳥羽は頷いた。
〝柳通りの幽霊〟の話が噂になったのは、三年前。その辺りで何か事件が無かったのかを、鳥羽は調べているのだった。
勿論、幽子の過去を捜す手がかりとして、だ。
鳥羽の答えに、先輩は意を決したように切り出した。
「お前さ、〝柳通りの幽霊〟のこと調べてるんだろ」
別に隠すつもりは無かったが、いきなり核心に触れられた鳥羽は驚いた。
一拍遅れて、当然か、とも思う。
三年前、柳通りとくれば、タクシーの運転手たちが思い浮かべるのは〝柳通りの幽霊〟だ。
図星か、と先輩が言う。
「最近、出なくなったからな。成仏したんだろうって言って、皆は喜んでるけど……」
先輩は、鳥羽を――
正確には、鳥羽の背後を――睨んだ。
そこでいったん言葉を切り、
迷うそぶりをみせてから、先輩は続けた。
「……憑いてるんだろ?」
「幽霊なんて本気で信じてるんですか、先輩」
背中に覆いかぶさる冷気を確かに感じながら、鳥羽は笑ってみせた。
「まさか、俺の背中に女の幽霊が負ぶさってるのが見えるとか、そう言うんじゃないでしょうね?」
「ああ。おれには、何も見えないけどな――」
低い先輩の声は、少々ピントがずれているものの、真っ直ぐ、幽子へと向けられていた。
「――嫌な気配がそこにくっ憑いてる気がする」
幽子のことを悪霊か何かのように言う先輩に、鳥羽はムッときた。
「冗談はよしてください」
「冗談じゃねえよ」
どうやら本気で心配しているらしい先輩は、馬鹿らしいという態度で踵を返そうとした鳥羽の腕をつかむ。
「寺とか神社とかに行って、お祓いしてもらえ。いいな」
「嫌ですよ、そんな迷信深い真似するの」
「いいから、行け! 牡丹灯籠になっちまうぞ!」
「……わかりました!」
鳥羽は、先輩の手を払いのけた。
先輩はそれ以上追って来ようとはせず、そんな鳥羽をじっと見ている。
歩きながら、鳥羽は冗談じゃないと思った。
確かに先輩の言うとおり最近ふらふらしているが、それは暇があれば柳通りへと足を運んでいるからで、幽子に憑かれているせいではない。
「いいの?」 鳥羽にぴったりと寄り添いながら、幽子が訊いた。
「俺が幽子の心残りを見つけてやるって、自分で決めたんだ」
鳥羽のその答えに、幽子は「ありがとう」と言って微笑んだ。
くすくすという笑いは幽子の体を更に冷たく凍らせて、鳥羽の体温を少し削った。
身体が重い。
のしかかるというより押さえつけられているような圧力が、鳥羽の神経を鈍らせていた。
何とか瞼を押し上げる――幽子が笑っていた。愉しそうに、赤い口を歪めて嗤っていた。
その手が、鳥羽の首へとかかる。
(幽子……!)
腕が持ち上がらない。
身体中の気力を失った鳥羽には、思考以外、自由になるものが何一つなかった。
その思考さえも、今はひどく曖昧だ。
幽子が悪霊になってしまう。
目的を持たず、長く現世に居続けた幽子は、歪んだ願いを持つ霊へと変貌してしまう。
(駄目だ、幽子!)
鳥羽の制止は声にはならなかったが、
僅かに回復した気力が幽子の冷たい手を跳ね除けた。
上体を起こした鳥羽を見て、幽子がにっこりと嗤う。
――鳥羽さんと、ずぅっと一緒。一緒にいるのよ。
アハハハハ キャハハハハ――
ケタケタと嗤う幽子の冷たい体が、鳥羽に絡みつく。
それをずるずると引きずったまま、鳥羽は戸口まで這い進んだ。
……見つけなければ。幽子が完全に悪霊になってしまう前に、幽子の過去を見つけて成仏させてあげなければ。
――過去なんていらないわ。鳥羽さんとずぅっと一緒。それでいいじゃない。ね。
(駄目だ、幽子。それじゃ幽子の存在が消えちまう。ただの悪霊になっちまうんだぞ)
――かまわないわ。ずうっとずうっと、彷徨うの。鳥羽さんと一緒に。ね。アハハハハハ
冷気が鳥羽を締め付ける。
戸口の鍵を開けるのが精一杯で、鳥羽の手はドアノブを掴むことなくずるりと滑った。
耳元で幽子が囁きかける。
――一緒。ずうっと一緒よ。あたしの心残りなんて、もういいじゃないの。アハハハハハハ
冷えて凍っていく意識の中で、鳥羽は考えていた。
心残りは叶えるものであって、捨てるものではない。
捨ててしまえば、未練によってこの世にあり続ける幽霊はその存在が歪んでしまう……心残りを捨てちゃ駄目だ、幽子。幽子の心残りを探さなければ……
「おい、鳥羽! いるのか!?」
ドンドンッと扉を叩く音で、目が覚めた。
鍵が開いていることに気付いたらしく、思い切り扉が開かれる。
「鳥羽!」
鳥羽を引っ張り起こしたのは、先輩だった。
――邪魔しないでよ。鳥羽さんはあたしのものなんだから!
見えたわけではないのだろうが、自分を追い出そうとする冷気を感じた先輩は、キッと幽子を睨み付けた。
「大事な後輩を連れてかせやしねぇからな、生霊!」
「いき……りょう……?」
青い顔で問い返す鳥羽に、先輩が頷いた。
「わかったんだよ、この幽霊が誰なのか!
三年前、あそこで倒れて病院に担ぎ込まれて、それ以来意識が戻らない女がいるそうだ。
間違いねぇよ! お前を道連れに、あの世に逝こうとしてんだよ!」
幽子が……生霊? 幽子はまだ生きている?
ぐるぐると回る意識で、鳥羽は考えた。
それなら尚更、幽子を悪霊にするわけにはいかない。
「おい! 鳥羽!」
先輩の制止を振り切って、鳥羽は立ち上がり、壁伝いに歩き出した。
――逃がさないわよぉ。アハハハハハハ
鳥羽の背中に、幽子が覆いかぶさった。
重さと冷たさでよろめく鳥羽を、先輩が支える。
「そんな身体でどこに行くんだよ、鳥羽!?」
「蓮池病院です。幽子の魂を……身体があるところまで連れていかないと」
身体があるから、幽子は蓮池病院を目指していたのだ。
その大事な用が判明した以上、蓮池病院には幽子を阻む壁はないはずだった。
幽子の心残り……それは、まだ生きている自分に戻ること。身体の生への未練が、魂をこの世に繋ぎとめているのだ。
鳥羽は背中の幽霊に向かって、叫んだ。
「幽子、考えろ。退院したらやりたいこと、考えろ!」
――やりたい…こと?
狂ったように続いていた嗤いが止んだ。